Atsushi M.
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西尾の夏を彩る祇園祭り。このお祭りに伊文神社はなくてはならない存在です。祇園祭りは江戸時代から盛んだったそうで、
「みこしの渡御(とぎょ)を始め天王町のしし舞、肴町の大名行列、本町の手踊り等は今も受け継がれている。」(立て札より)
私が子どもの頃はまだ中央通りも拡幅する前で、車も普段は一方通行の狭い道を大名行列が通っていました。それはそれはもの凄い人混みで前へ進むのも一苦労。スリや痴漢も多かったことでしょう。おっさん達も普通にたばこを吸いながら歩いていましたし、今では考えられない様な光景だったと思います。それが今では道幅も広がり、昔に比べればゆったりと見ることができるようになりましたね。祭りの中心も歴史公園に移動しましたし、徐々に祭りも様変わりしています。
さて、伊文神社。今から1100年程前、文徳天皇の皇子が都からこちらにお引っ越しされる際に天王社(現 伊文神社)と八幡社(現 御劔八幡宮)も一緒に三河の地へお引っ越ししたと記されています。天王社(現 伊文神社)は元々宮町に祀られていたそうですが、後醍醐天皇の時代に今の場所にお引っ越ししました。
神社ってちょいちょいお引っ越しするんですね。実は名前もちょいちょい変わっています。天王社→伊文山天王(いもやまてんのう)→伊文山牛頭天王(いもやまごずてんのう)→伊文社(いもんしゃ)→伊文天王(いもんてんのう)→伊文神社(今ここ)
なにせ、西尾の産土神(うぶすながみ)です。産土神とは「その人の生まれた土地を守る神。鎮守(ちんじゅ)の神。」とGoogleで調べたら書いてありました。西尾をずぅっと守ってくれているんですね。
さて、安産や子どもの病気平癒の御神徳で知られる子安の泉。この泉は、歴史のある伊文神社にありますので効き目も期待できそうです。
伊文神社は、
「伊文神社は今よりおよそ1,100年前の平安文化華やかなりし頃、人皇五十五代文徳天皇の皇子八條院宮が三河国渥美郡伊川津の地より当地へ御轉住の折に、随遷し奉祀されました。八條院宮は、文徳天皇の皇子とも弟とも云われ、朝廷の命により、吉良の地を根城にしていた兼光・兼森という兄弟の逆徒討伐の為、西尾の地に赴かれました。その際に屋敷の東西に御祀されていた、天王社(現伊文神社)と八幡社(現御劔八幡宮)を随遷されたと伝わっております。」(伊文神社HPより)
文徳(もんとく)天皇が祀られている神社だったんですね。文徳天皇は第55代天皇です。この後、第56代清和天皇となり清和源氏の流れへと繋がります。そういえば、西尾が発祥とされる今川氏も源氏の流れを汲んでいます。今川氏は「清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる」(Wikipediaより抜粋)わけでして、何やら縁を感じないわけにはいきません。西尾市なんて三河の田舎が、実は日本の歴史と重要な関わりがありそうです。
私も初詣は毎年伊文さんにお参りに行きますので大変親しみがありますが、それにしても1100年余りの歴史があるので、西尾のパワースポットのひとつとして有名なのも頷けます。
伊文神社にある大きな石灯籠があります。
実は明治時代に名を馳せた地元の名士で岩瀬文庫を設立した岩瀬弥助さんが、文庫の設立を記念して奉納したのがこの石灯籠だそうです。曰く、
「明治四十一年、岩瀬弥助は新屋敷町に岩瀬文庫を設立しました。その設立の謎を解くものが、文庫設立を記念して奉納建立した石灯籠で、そこには弥助の深い思いが刻まれています。原文ではわずか八〇字にすぎませんが、とりわけ重要なのは、文庫設立の目的についての記述です。原文では『之を身にも人にも施し、且つ之を不朽に伝えんと欲す』とあり、集めた書物を『一般社会に公開提供すること』と、同時にそのことを通して書物を『未来に保存すること』、この二つの理念が表現されています。…」(立て札より)
それにしても弥助さんの石灯籠は立派です。その存在感は悠然且つ確固とした強い意志を示しているようです。